プロフィール

山田さとみ

・生年月日 1982年12月2日生

・血液型 A型

・身長 157cm

・家族 夫と子供2人(8歳と11歳)の4人家族

・長所 パワフルに行動できる。

 人の思いを汲み、行動することが出来る。

 意見を広く聴き異なる意見をまとめて、なるべく皆が納得できる結論を見出すことが出来る。

・短所 感動して涙腺が緩みやすい。

・好物 焼き肉、カレー、そば


幼少期~小中学生時代

~他者との関りの中で成長~


1982年12月2日 千葉県松戸市に生まれる。兄、妹、弟の4人きょうだいの二番目で長女。小さい頃は外で遊ぶことが大好きだった。家では妹とお人形で遊ぶのが大好きだった。

 

小中学生の頃は、学級委員長や委員会の委員長、音楽会の指揮者、リーダー研修の議長などを経験。きっかけは誰も立候補しないので痺れを切らせて挑戦してみたが、 皆が一丸となって同じ目標に向かっていくために多くの同級生や他学年の生徒、先生方と話し合い、調整していくなど、大変だが非常に有益ないい経験になった。

小学校高学年ではクラスメートにあらぬ噂を流され非常に苦しい体験をした。自分からは相手の悪口を言わないように真摯に対応し、時間がかかったが最終的には多くの友達との仲を修復することができた。

小中学校の部活動は陸上部。100m走、200m走、リレー、砲丸、駅伝などを頑張ったが、脚を故障。リハビリ中に運動部以外の活動として書道部・合唱部にも参加。人のあたたかさや芸術が心を癒してくれることを実感。脚もすっかり回復した。



高校生時代

~将来への目標を見つける~


高校生は小さい頃から勉強してきた英語を活かす英語コースのある高校へ。友人に誘われ、「学校がもっと楽しくなるならば!」と、生徒会副会長、文化祭実行委員長を経験。購買の品揃えの充実や文化祭での新しい試み等、既存の暗黙のルールに疑問を持ち、小さな不満に対しても、大きなイベント行事に対しても「生徒皆が楽しくなるならば!」と、小さな改革を重ねる。自分の将来を真剣に考えるうち、私が見つけた道は「ファッション」だった。人が楽しい日、辛い日、勝負の日、生きていく中でいろいろある中で、必ず身に着ける洋服・ファッション。私自身も辛い状況の中でもファッションを通じて自己表現をすることが大きな力になってきた。ファッション関係の仕事をすることで、人の生活を、人の1日を勇気づけたいと思い、文化女子大学(現文化学園大学)に進学を希望。親には大反対されたが、どうしても譲れなかった。親に認めてもらうまで1年かかったが、熱意を伝え続けて進学を許してもらった。



大学生時代

~ファッションの世界へ~

希望の大学に進学し、大学の課題に追われる日々。ファッション関連の課題は製作費などで普通の大学よりお金が必要であり、それを稼ぐため、大手アパレルの販売スタッフとしてアルバイト。お店での個人売り上げも良く、時給も上がっていった。何よりも、お客様が満足してお帰りになることがとても嬉しかった。私がファッションを志した答えがここにあるのだと思いながら日々修業を積んだ。その最中、私の仕事を評価してくれていた他店の店長から、一緒に働きませんかと申し出てくれたので、チャレンジすることにした。

新しいお店はこれまで働いていたお店よりスタッフの数が少なく、若手ながら大きな経験を積むことができ、大学でのファッションの課題にも、人生経験としても非常に役に立った。

大学卒業間近には店長を任せられた。大きな裁量と責任を任せられた中、それ以前で100店舗中売り上げが50位台だった店舗を10位台に入るお店に成長させることができた。お客様からは「さとみさんは、お店の利益より私に本当に合う提案をしてくれる」とのお声をいただき、私のやり方は間違っていなかったと本当に嬉しく感じた。「仕事を通じて人の生活が、1日が、よりよいものになるようにしたい。」という思いが一層強くなった。


社会人時代

~父親の死、新たな挑戦~

アパレルの店長として充実した日々を過ごしている頃、父が救急搬送された。癌だった。それから約3か月後、息を引き取った。

大黒柱を失った我が家。きょうだいにはまだ学生もいる中でより稼げる仕事に就いた方がいいのか、育ててくれた会社への恩義など、様々考える中で、(株)ユナイテッドアローズの方が新規店舗のスタッフとして迎えたいとお話を下さった。育てて下さった会社には残念な思いをさせてしまい、今も申し訳ないと思っているが、新しいチャレンジとしてユナイテッドアローズでお世話になることにした。

ユナイテッドアローズでは、新丸ビルと銀座店の新規オープンに携わった。多様なお客様方が大勢いらっしゃる中で、前の職場でも意識していた「顧客目線」を徹底した接客をした結果、売り上げはトップクラスであった。笑顔でお帰りになるお客様のお顔がとても好きだった。


結婚

~仕事のやりがいと女性のライフイベントとの狭間で悩む~

仕事が大きな生きがいとなっていたその頃、プライベートでは結婚の申し入れがあり快諾した。結婚後の将来を考える中で、夫は当時、帰宅が毎日深夜になる仕事をしていたこと、子供が出来たときの自分の仕事のペース、保育園はなかなか入れないこと、子供が病気をしたら仕事に穴をあけてしまうこと、親の介護の可能性など、結婚してこどもを持ち生きていく中で、女性特有の大きな障壁があることを強く認識した。

 

一人で悩みながら仕事をする中で心と体のバランスを欠き、体調を崩し退職。この時に、「結婚して子供をもうけたいと思ったとき、親の介護が必要になったとき、変化を求められるのはいつも女性。女性だって、求めれば変わらず社会で活躍し続けられる社会を作りたい」と強く思った。


出産・保活

~東日本大震災。産後うつ状態。苦しい保活。社会との関りで、より強くなった自分との出会い~

結婚し、第一子妊娠6か月の頃、いつも買い物をしているお店で東日本大震災が起こった。非常用扉はバタンバタンと大きく動き、照明は大きく揺れていた。エスカレーターやエレベーターは止まり、買い物客はどうしたらいいのか身動きが取れない。日常が一転して恐怖に包まれた。6か月の大きくなってきたお腹を抱えながらマンションの非常階段を上り、テレビをつけてみたらとんでもない光景を目の当たりにした。津波、帰宅難民…自宅付近に勤めている友人に可能な限り連絡を取り、不安な夜をみんなで過ごした。宮城の友人に連絡を取り、現場で足りていないものをリサーチして東京の有志の友達で必要なものを買い揃え、物資として送った。

これまで当たり前だと思っていた日常の安全・安心が大きく揺るがされたこの経験は、エネルギー政策のあり方を含め、私の人生観に大きな影響を与えた。特に、お腹に赤ちゃんを抱えていたことから、子供達の世代にしっかりとバトンタッチできる、持続可能な社会をつくっていかなければいけないという思いを強くした。

そして第一子となる男の子を出産。相変わらず夫の仕事が忙しい中でワンオペ育児を頑張った結果、産後うつ状態に。赤ちゃんがスーパーや電車の中など、外で泣いたときに周囲から向けられる冷たい視線が怖くてひきこもり気味に。友人がしばしば遊びに来てくれたり、児童館に誘ってくれたりしたのが大きな救いだった。

仕事を再開しようとしたが、保活で苦戦。近所の保育園は認可も認証も空いていない状況。ウェイティングリストは50番台であり諦めかけたが、30分に1本しか来ないバスに乗り20分かけて通う園であれば空きがあることを知り、すがるように入園。1歳児の赤ちゃんはなかなか思うようにならない中、30分に1本のバスを逃すわけにいかず朝の支度は毎日必死。

 

仕事ではIT企業の秘書課に配属。久しぶりの仕事は楽しく、同僚から「ありがとう」と言われたときには思わず涙が出たことも。社会との関りが自分自身を取り戻させてくれた。「子供」という自分よりも大切な存在ができたことで、私自身が産前よりも様々なことのバランスを考えながら生きていくことができるようになれた。より強くなった自分と出会えた。

 


アメリカ時代

~家族で渡米、アメリカでの子育て~

長男が2歳の時、主人の仕事の都合でニューヨークへ。私は下の子を妊娠していた。長男をニューヨークのプリスクールに入園させ、私は語学学校で英語を学び直した。

第二子になる男の子を出産。ニューヨークの方は子供・妊婦・ベビーカー連れに優しく、地下鉄では泣いている私の子供を積極的にあやしてくれたり、席を譲ってくれた。ニューヨークの公園はよく整備されており、子供が誤って道路に出ないように安全な柵に囲まれていた。遊具は彩り豊かで塗装も剥げていない。夏になると水遊びが出来るように噴水などが用意されている。街全体で子供の成長をサポートしている印象を強く受けた。

ニューヨークでの1年後はワシントンD.C.に程近いメリーランド州ベセスダへ。長男を妊娠中にモンテッソーリ教育について勉強をしていたので、興味のあったモンテッソーリのプリスクールに長男を入園させる。一人ひとりを尊重し、興味関心の幅を広げ、やりたい気持ちを伸ばしてあげる教育にとても惹かれた。

アメリカはちょうど大統領選挙の時期。日本とは異なり、政治の話をして当たり前という雰囲気が新鮮であった。自分たちで政治を変えていく、政治が日本より身近なものという印象を強く感じた。


帰国・政治の世界へ

~政治への決意を固める~

帰国して間もなく、小池百合子東京都知事が誕生。都民の目線で改革する女性リーダーに憧れと尊敬の念を抱く。2017年7月、都民ファーストの会が東京都議会における最大勢力に。私は東京都議会議員・山田ひろしの秘書として働き始める。

東京都においては、小池知事・都民ファーストの会により次々と改革が行われる。女性や子供向けの政策の充実、東京都全体での待機児童数の減少、受動喫煙対策、議会改革、多摩地域への市町村総合交付金の拡充など、今まで政治の世界で十分に光が当てられてこなかった課題の解決に向けた政策が進んでいる点を、東京都議会議員の秘書として間近にみることができた。

その中で、都議会議員の秘書として三鷹市民のお声を伺うにつれ、都の管轄ではなく市の管轄のご相談が多いことに気が付く。保育園、幼稚園、小学校、中学校、学童、介護サービス、特養、貧困、商店街の活性化等、都が様々な新しい施策を打ち出しても、実際にそれを現場で活用していくのは基礎自治体である三鷹市であり、東京都全体で進んでいる改革を実際に都民・市民が実感できるように展開していくには、市にも東京都で進めている改革を共に進めていく必要があると強く感じた。

ならば、都議会議員秘書としての経験や、これまでの自分の人生経験を活かして、生活している方の目線に立った、市民の目線に立った政治を実現したいと思い立つ。


初当選

~三鷹市議会議員として活動を始める~

2019年に行われた三鷹市議会議員選挙にて初当選。3,825票ものご信託を頂き、トップ当選となりました。

頂いた付託に応えられるよう、議会での発言の際には、常に「市民目線の発言であるか」を意識して活動してきました。

市民の皆様から頂いたお声をもとに、調査・研究を重ね、政策として三鷹市に届けてきました。


当選後、まずは待機児童対策、受動喫煙対策、市内小・中学校での1人一台タブレットの配備などについて取り組みました。

その後すぐに新型コロナウイルスの感染者が増加し、4年の任期の大半はコロナ禍となりました。市内小・中学校は突然の休校となり、まずは議会で子ども達の学習機会の確保を求め、オンラインで授業が出来るような体制づくりや、連絡帳とプリントのデジタル化を求めました。(こちらについては実現しました)

新型コロナウイルスがどのような性質のウイルスなのかまだ分からない状態の中で、三鷹市民にとって必要な政策を常に考えながら、市民のお声を頂きながら政策提言を行う日々が続きました。その後徐々に新型コロナウイルスの感染予防策も明らかになりましたが、コロナ禍でライフスタイルや価値観が大きく変容する中で、三鷹市政に求められる政策とは何であるのか、模索しながら活動しています。

 

市民の皆様から頂いたお声をより良い政策提言に繋げたいという思いから、20224月に明治大学公共政策大学院に入学し、学びを深めています。